阪神淡路大震災25周年にあたって

私はほぼ東京にいた人間なので、この震災で直接的に被害にあったとか、友人を亡くしたとかいうわけではありません。
私が21歳、大学3年生の時に起きたこの震災、そして、この後に起きた地下鉄サリン事件は、自分の人生に大きな影響を与えたと今でも思います。
当時の東大では3年生で基礎看護学を学び春休みの時期に最初の実習を経験するという状況でしたので、自分自身も看護コースを選択することはあまり実感がありませんでした。
高校生のころから、日本の医療が良いものだとよいなぐらいの関心はあったのですが、医療従事者になることは責任の重いことだという認識があり、高校の時から忌避的でしたし、少なくない友人たちが医師を目指すってだけで凄いなあと思っていました。

大学に入ってから、いろいろ考えて、文科Ⅲ類から健康科学・看護学科に進学して、授業はとても面白かったし、夏のラボメソでは実験衣に袖を通し色んな実験をして理系学生体験もしていました。(そういえば理系の友人達は教養の時に実験頑張ってました。)
この震災で自分の人生で初めて比較的身近に多くの人が亡くなる状況に直面し、少なからず無力感にも襲われました。そんな中、看護が学べる大学が15校ぐらいしかなかった時代に将来を期待されて編入学してきた看護師免許を持つ年齢的にはお姉さんの同級生達が大きな荷物を抱えて、医療ボランティアに向かっていました。当時はDMATとか、災害ボランティアみたいな仕組みが組織化されていませんでしたし、携帯電話やインターネットもそれほど普及していませんでしたから、自分で情報を集め、判断し行動する姿勢が私には気高く、力強いものに見えました。
また地下鉄サリン事件の時には、障害児の支援の仕事がキャンセルになり、大学に向かおうと日比谷線の広尾駅の改札前で遭遇しました。地域柄外国人の方が多く状況が把握できずにパニックになっている様子もあり、安全を確保しながら駅員さんの説明を簡単に通訳したりしました。(その時はサリンではなく爆発だと駅員さんは話していたと思います。)

勉強ということでは同世代の中ではできる方だったと思いますが、こういう時には頭の中の知識だけでは役に立たないことが沢山あることをこのころの自分はあまりわかっていなかったと思います。せっかく医学部というところに籍を置いているのだから、自分にできそうなことは看護も含めて、できるだけ学んでから卒業したいというのが、今の自分にできることだと感じていました。
酷い災害や事件でしたので多くの犠牲は周囲の人たちに多くの悲しみを与えたことでしょう。そしてその犠牲は私自身を鍛え、育ててくださったような気が今でもします。またこの仕事がそういう因果な職業であること、高校生の時に感じていた責任よりもずっと重い部分も教えてもらいました。

とはいえ、私は今も看護を職業にしています。

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